能ある鷹こそ″爪″を誇示せよ!

つまり「自分はこういう考え方をしている」という意思表示をすることである。「自分は鷹だ」「自分はハトだ」と堂々と主張してほしい。中には鷹やハトばかりではなくトンビやカラスもいると思うがトンビやカラスでも別に悪いわけでもない。このように自分の個性を十二分に自覚し、表明できてこそ、はじめて立派な仕事もできるのだし、また世の中に貢献しているという心の支えにもなるのである。またこの仕事に対する強い自信が、自己のプライドともなるわけである。人間が生きていく上には、種々の欲望もつきまとう。金も欲しいし、プライドも持ちたい。愛情も欲しい。また健康でもありたいだろう。こう見ると利潤だけを追っても、すべてに満足するというわけにもいかない。私はプライドの持てる仕事に従事しているので、自分の人生が楽しいと思っている。これが泥棒や詐欺ばかりに明け暮れているとしたら、当然プライドも持てないし、楽しみも湧かないと思う。また世の中には鷹ばかりいるわけでもない。だがトンビやカラスでも、働きようによっては立派に役立つはずだ。それも「自分はトンビだ」「自分はカラスだ」と主張してこそ、可能であるというもの。そう明確に主張さえしておけば、世間もその能力を最大限に発揮できるように使用してくれるはずである。←いろいろな情報を見て知識を得よう。


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能力の”蛇口“をいつも全開にしておく法

人間には種々のタイプがあるものだ。生まれつき人並みはずれた天分を備えている人もいる。また教育とか本人の努力とかで培われた後天的な才能を身につけている人もいる。逆にそういった天分とか才能などは全然ないにもかかわらず、あたかも才智に秀でているように見せかける人もいる。大勢の人の中から、短時間でこれらを正しく評価して見分けるのは、大変な努力と、特殊な技術が必要である。ところがわが国には昔から「能ある鷹は爪をかくす」という諺がある。これは謙譲を美徳とした極めて民度の低かった時代の、大衆へのアピールである。困ったことには現代でもそれが高く評価され強調されていることだ。つまり実力のある人は滅多にその手腕を示してはいけないといましめ、そういう人が偉いのだというのである。私は、どうしてこのような諺がもっともらしく伝えられるのか理解に苦しんでいる。滅多に手腕を示さないのなら、第一手腕が本当にあるのかどうかもわからない。手腕が示され、実績が上がって、はじめて偉いといわれるので、爪をかくしているときから偉いとはいえないはずだ。次に、そんなに手腕を出し惜しみしていたら、日進月歩するスピード時代の今日には通用しないだろう。折角の手腕も宝の持ちぐされにしかならない。私はこのような言葉は日本から追放しなくてはいけないと思っている。逆に「能ある鷹は爪をかくさず」を主張したいのだ。←こちらでのサイトでは様々な情報を取り揃えております。


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失敗を恐れるな

あるシンポジウムに出席して、学者がたの討論を聴き感動したことがある。彼らの探求心は、実に幼稚園児のように素朴で、貧欲なのである。例として適当ではないが「朝どうして起きるの?」「どうして顔を洗うの?」と誰しもが常識として疑わないことから、疑い、分解し、破壊していくのだ。この思考のすすめ方、発想の展開の過程で、新しい真理の発見があり、学問の進歩が生まれるのである。つまり「創造的破壊の発想」である。常識とは、万能の神の作ったものではない。人間が生活する上での、便宜上の約束事なのだ。常識は、時代とともに変わる。かつて、昼と夜しかなかった常識が、その間に「たそがれゾーン」があるという考え方の提起で、破られつつある。昼か夜か、白か黒か、と割り切ろうとする固定観念がこわれて、その中間に「たそがれ」あるいは「灰色」の存在を認めようとしつつある。そうなると、これまで目に白と、これまで目に見えなかったことが、次々と明確に見えるようになっている。つまり進歩であり、発展であると思う。古いつまらぬ固定観念をすてると、心は新鮮になり、眼からウロコがおちて、真実が見えるようになる。このことが大切なのである。それと、もう一つ大切なことは「失敗を恐れるな」ということ。成功というものは、九九%の失敗を土台にしている。その失敗すら、現在あらためて見直せば、成功につながるものもいっぱいある。結局、失敗であろうが、「やってみる」こと、そこに値打ちがあるのだと思う。人に教えてもらうより、人間、失敗すると肝に銘じてこたえるものだ。それが、一種の「開眼」なのである。成功すると、とかく反省を忘れがちだが、失敗には必ず厳しい反省がある。そこに、一歩前進の手掛かりがひそんでいるものである。まさに「失敗もまた楽し」ではないか。恐れることはないのである。反省ということで、ぜひ付け加えておかなければならないことがある。それは、成功したときの反省である。なぜ?なぜ?なぜ?と反省することによって、一つの成功は、次の、より大きい成功につながるものなのである。その反省を忘れると、折角の成功もそこで行き止まりとなってしまうというのが、私の過去の経験から学んだ信念である。東京 アルバイト ←いろいろな情報はこちらのサイトから確認してください。


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経験の知恵も大切だ

現状を正確に判断し、将来の見通しをガッチリと立て、自分のスタミナを適正に配分することが大事だ。そのために学問も必要だろうし、豊かな見識もいるだろう。経験の知恵も大切だ。勇気も、決断力も、実行力も、そして忍耐力もなくてはなるまい。これらに目を向けず、むやみと先を急ぐことは「若さ」でもなければ、未来に生きる姿勢でもないと思う。歴史は、現代を支え、未来を組み立てる。歴史を否定して、現在は理解できないのだ。未来の方向に正しく向くには、歴史を背景に持たなければならない。たとえていえば、こういうことである。若い人は知らないだろうが、終戦直後、いろんな型の自転車が氾らんした時代があった。奇抜なアイデアやデザインを売りものにして、私達を驚かせた。しかし、それは長くは続かなかった。そして再び以前の古い型に戻ってしまった。なぜこういうことになったかといえば、自転車というものはすでに遠い昔に、すべての意味で完成されていたのだ。三角の車体フレームは、理論的にも経済的にも最高に合理化された結論なのである。二輪を人力で運転するなら、もうこれ以上のものは考えられない構造であり、スタイルだったのだ。これは自転車の歴史を見れば、簡単に理解できることである。それを無視したからいけなかった。人生には、こんな例は数限りなくある。少しばかりの努力と時間を惜しんで、バカげた無駄骨を折るのは愚である。短気で先走りの私が、歴史を勉強するのが好きなのは、まんざら「立川文庫」愛読の延長ばかりでなくこんな理由もあるのだ。たしかに歴史は多くを教えてくれる。反省の材料も与えてくれる。適切な助言もしてくれる。人生は本当に長い。スタートを間違ったら、先行き誤差の拡がりは大変なものになる。スタミナの配分がでたらめだったら、折角のハイ・オクタンの「若さ」というエネルギーも、爆発して破壊力に堕落するし、エン・ストの原因ともなってしまう。←こちらのサイトでいろいろな情報を見られます。


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知識欲

「若さ」においては、どんな青年にもピケをとらないと自負している私だが、なんといっても一九○六年生まれである。頭の禿げている私のことを、世間では長いこと「ホンダ・アプレ」と陰口をたたいた。ホメ言葉か悪口か知らないが、これをもっていかに社会が保守的で、セクトにこだわり、排他的か、わかると思う。私は深刻に、これではいけないと思う。オトナ達が本気で未知の魅力にとりつかれ、勇敢にそれを追求しなければ、家庭生活は暗くなり、社会に活力が消え、その結果、国家も斜陽のコースをたどることになる。なぜかといえば、消極的なオトナに囲まれていては、満足に若い芽も、若いエネルギーも生まれにくいからだ。子ども達が、見るもの聞くものに疑問をいだき、関心と好奇の目をみはる。なんでも掴もうとしたり、口に入れたり、破いたり壊したり、親をハラハラさせる。「どうしてなの?」を連発する。子ども達にとって、すべてが未知の対象だ。恐ろしさも確かにあるだろうが、子ども達はそれにひるまない。未知への探求心は、探険家の心理に通じる。子どもというものは、だいたいそんなに相違のあるものではない。同じ程度のテンポで成長するのだから、どの子も一様に勇敢な未知の世界への探険家である。親達はとかく無理解に、この探険家を冷遇する。そして未知への関心の芽を摘みとったり、ゆがめたりしている。この傾向は、子どもが幼児から青年に成長しても、一向に改まらぬどころか、むしろ頑固さが加わるほどだ。若い人達は、当然ながらまだ自分の思想も固まっていない。いろいろな未知を追求し、体験していくうちに、自分の考えもはっきりして、その個性も形成されていく。そのため知識欲に燃えて、手当り次第に本を読みあきるのもよい。力いっぱい体を鍛えるのもいいだろう。仕事に打ち込むのも、精いっぱいに楽しみを味わうのもよい。それが若さであり、青春の特権なのである。←こちらから情報収集を始めましょう。


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